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張ダビデ牧師:粘り強い祈りと失望しない信仰(ルカの福音書11章・18章講解)

1. ルカ11章:何を、どのように祈るべきか

ルカ11章でイエスは弟子たちに祈りの模範である「主の祈り」と、祈りの態度を示す「しつこく頼む友人」のたとえを教えられます。

祈りの最優先事項:神の光と御

イエスが教えられた祈りの冒頭は「御名が聖とされ、御国が来ますように」(ルカ11:2)です。張牧師は、これがすべての祈りの大前提であり出発点であると強調します。私たちの祈りは個人的願望の成就を越え、最終的には神の御旨が地に実現し、神が栄光をお受けになる結果へとつながるべきだというのです。私たちが真心から「御心がなり、あなたの御名が崇められますように」と告白して進み出る時、神は私たちの人生に具体的に介入し、応答を与えてくださいます。

人生のあらゆる領域における具体的な願い

  • 現在のための祈り(その日の糧)
    「日ごとの糧」(ルカ11:3)は単に霊的糧だけを意味しません。張牧師は、この祈りが私たちの現実の中で必要な食物、財政、住まいなど今日を生きるために欠かせないすべての物質的供給を含むと説明します。これは人間的欲望ではなく、実存的必要を神に大胆に求める行為です。
  • 過去のための祈り(赦し)
    「私たちの罪をお赦しください。私たちもすべての負債のある者を赦しますから」(ルカ11:4a)という祈りは、過去の傷や憎しみ、恨みを解決する鍵です。張牧師は、誰かを憎む心を抱えたままでは完全な祈りを捧げられず、私たちが他者を赦さなければ神も私たちを赦されないと聖書が厳しく警告していると指摘します。祈りの答えを得るためには、まず赦しの姿勢が必須です。
  • のための祈り(試みにする守り)
    「私たちを試みに遭わせないでください」(ルカ11:4b)という祈りは、将来訪れる誘惑と試練を意味します。人は弱い存在であるため、自分自身を頼るのではなく、神が私たちを罪と悪から救い出してくださるよう願わなければなりません。私たちの弱さを力で満たしてくださる方はただ神のみであると認める祈りです。

祈りの姿勢:愛から生まれる「しつこさ」

イエスは真夜中に友のもとへパン三つを借りに行く人のたとえ(ルカ11:5-8)を語られます。ユダヤ文化では夜中に戸を叩くことは非常に無礼で恥ずかしい行為でしたが、彼は客をもてなしたい思いから最後まで願い続けました。張牧師は、このたとえの核心を「友だからではなく、しつこく願い続けたから与えられた」と解釈します。神は私たちの必要を知っておられますが、時に私たちが切実な愛の表現として粘り強くすがりつくことを望まれます。このように祈りは単に何かを得る手段を超え、神との関係を深め、その方への愛を表現する過程なのです。

 


2. ルカ18章:なぜ諦めてはいけないのか

 

ルカ18章でイエスは「いつでも祈り、失望してはならない」ことを教えるため、「不義な裁判官とやもめ」のたとえをお語りになりました。

不義な裁判官をも動かした「粘りさ」

たとえに登場する裁判官は「神を恐れず、人を顧みない」人物で、自分の利便と利益だけを考えていました。彼は訴えるやもめの願いを聞き入れる理由が全くありませんでした。それでもやもめは諦めずに何度も足を運び続けます。結果として裁判官は「このやもめがうるさくて仕方ないから、彼女の願いを叶えてやろう」と言います。イエスはこのたとえを通し、「ましてや神は昼も夜も叫び求めるご自身の選びの民のために、正しい裁きを行われないであろうか」と問いかけられます。不義な裁判官でさえ粘り強い願いに応えたのなら、まして私たちを愛される公義なる神が子どもたちの祈りをどうして無視されるでしょうか。張牧師は、この点を踏まえ、もし答えが遅いと感じるなら私たちが果たして「昼夜叫ぶ祈り」を捧げているか自ら点検すべきだと語ります。

「人の子がる時、地上に信仰を見出すであろうか」

イエスのこの問い(ルカ18:8)は、終わりの時が近づくほど祈りが冷えていく現実への警告です。張牧師は、今日多くの信者が忙しい日常、世の誘惑、即時の答えが得られないことなどにより容易に失望し、祈りの綱を手放してしまうと嘆きます。しかしイエスの教えは明確です。「常に祈り、失望してはならない」。祈りだけが人間の方法では解決できない問題を解く絶対的手段だからです。

粘りい祈りの際的な

  • エリヤの祈り
    3年6か月の干ばつが止むまで祈ったエリヤは、何の兆しもなくても七度まで諦めず、ついに「人の手のひらほどの小さな雲」を通して大雨の応答を得ました。これは粘り強くすがる者を神が決して見捨てられない明白な証です。
  • 答の記
    祈りの課題と応答の過程を具体的に記録する習慣は信仰を堅固にし、神が生きておられる証を蓄積する助けとなると助言します。
  • 現場の証し
    財政と人員が不足する海外宣教の現場で、聖徒たちが一致して粘り強く祈った時、神が必要を満たし協力者を送ってくださる経験を重ねたと証言します。

 


結論

粘り強い祈りと失望しない信仰は、私たちの人生を導く核心原理です。祈りは神の栄光を求めると同時に、私たちの過去・現在・未来のすべての必要を申し上げる通路です。また、時に答えがないように見えても諦めずに扉を叩き続ける「しつこさ」の姿勢が必要です。張牧師は、この祈りの特権を握りしめて生きる時、神が私たちのあらゆる必要を満たし、どのような状況でも最善の道へ導いてくださると信じ、行動に移すよう強く勧めています。

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